吉祥寺から高円寺 1980年
- 2016/3/4
- コラム
前回の駄文で「1980年春、私は吉祥寺の井の頭公園にいた」と書いた。
その後1人でいたわけではないとも書いた。
そして激動の1980年始まると書いている。
ここまで読むと、わけあり女性といて、何か恋愛小説や恋愛ドラマが始まりそうだが、そうは問屋が卸さないのが世の常だ。
確かに井の頭公園に女性といた。
しかし彼女は同郷の幼馴染で彼もいる女性だ。
彼女は吉祥寺からバスで30分ぐらいの場所にある、所謂、超お嬢様大学に通っていた。
私鉄で言うとK線の駅だ。
彼女とは気が合い、暇な日はお昼から吉祥寺で待ち合わせた。(携帯などもちろんない)
井の頭線と中央線の出口の階段だ。
私は今でもファションに無頓着だが、彼女は当時流行りの「ハマトラ」と言うファッションでいつも来た。
(ハマトラとは横浜トラディショナルと言う当時流行りのファッションだとは、後から聞いた)
昼の食事は幼馴染とはいえ、若い女性なのだから、イタリアンだの、フレンチだのと言うところだが、
当時はお金もなく(今もないが)お昼の選択肢は2つしかなかった。
吉野家か松屋の牛丼だ。
吉祥寺の南口を出てすぐ、吉野家と松屋が隣どうしで店を出していた。
吉野家は全国展開しているのでご存じだろうが、松屋は関東が中心だったのだろう。
「吉野家と松屋、どっちにする?」お嬢様大学の学食より安い牛丼に彼女は嫌な顔一つせず
「松屋」と決まって答えた。
なぜ松屋と思う方もおられるだろう。ここには学生らしい答えがあった。
牛丼は吉野家も松屋も並が180円なのだが、松屋の牛丼は味噌汁付きなのだ。
答えは「松屋」しかない。彼女は小柄ながらよく食べた。よく食べる子はいい。
それから映画を見るわけでもなく、吉祥寺の街を歩いた。
そうだ想い出した。
ある日、吉祥寺から井の頭線で渋谷に行き、伝説のライブハウス「ジャンジャン」でダウンタウンブギウギバンドの演奏を聞いた。
彼女の友人が好きで一緒に行こうとなったのだ。
私はフォーク系の音楽を聞いて、エレキギターには少し違和感があったが目の前で見られるのはよかった。
宇崎竜童さんがメンバー紹介で自分を「ノイズギター宇崎竜童」と紹介した。
この「ノイズ」と言う言葉が気に入り「世の中にはノイズが必要さ」などとよく使った。
そうだ、吉祥寺の話しだった。
彼女といろいろ話したが、今では話した内容は覚えていない。
昼過ぎに会って1日、吉祥寺で過ごした。彼女は門限があった。
夕方また食事をした。
南口にある小汚い中華料理屋が定番だった。
しかし今考えても小汚い中華料理屋で一緒によく食べてくれた。
2人で餃子1人前、硬焼きそば1人前、白飯大盛1人前これで1000円に収まった。
不愛想な店主に「すいません、取り皿を4枚いいですか?」
にこりともしない店主は黙って取り皿を4枚くれた。
彼女は餃子を半分、硬焼きそばを半分、白飯大盛はさすがに私に三分の二をくれた。
タバコの匂いが餃子の匂いと混ざりどう考えても女子大生は行かないだろう店で
しかし彼女は笑いながらよく食べた。
彼女は本当によく食べた。そして笑った。
午後7時半、彼女の帰りの時間だ。吉祥寺が始発のバスで帰る。
バス停でバスを待つ間もたわいない話しをした。
彼女はバスの一番後ろの席の真ん中に座った。
バスが出発するとバスの後ろの大きなガラス越しに大きく手を振った。
私はダスティンホフマンの映画「卒業」の最後のシーンを想い出した。
私はバスがいせやの前を曲がるまで見送った。
ふーと大きく息を吐き、私は人で混雑する吉祥寺の駅に向かった。
中央線に乗り、高円寺まで帰る。
阿佐ヶ谷の駅では、友部正人の名曲「一本道」の歌詞を想い出した。
☆歌詞☆
僕は今阿佐ヶ谷の駅に立ち
電車を待っているところ
何もなかった事にしましょうと
今日も日が暮れました
あー中央線よ空を飛んで
あの娘の胸に突き刺され
高円寺から下宿まで20分歩いた。
さーまた明日がはじまる。
彼女は卒業してすぐ結婚した。
今は大企業に勤務する旦那様と幸せに暮らしている。
その後、数回故郷で会ったがここ20年会っていない。