吉祥寺の春 1980年
- 2016/2/12
- コラム
1980年の春、私は吉祥寺の井之頭公園にいた。
今では住みたい街ランキングで毎年上位を占める素敵な街だ。
当時はサンロードと言う商店街や伊勢丹吉祥寺店(現在はない)東急百貨店吉祥寺店などもあったが、駅前にはごちゃごちゃして市場や
ライブハウスなどがあり若者の街として人気があった。
この街を皆「ジョージ」と呼んでいた。アメリカのジョージタウンをまねて「ジョージ」と呼んでいたのだろう。
私は相変わらず高円寺の下宿にいたが後年この吉祥寺に住むことになる。
今でも学生時代の話しになると、吉田拓郎さんの名曲「高円寺」が好きで2年間高円寺に住み、
その後は斉藤哲夫さんの名曲「吉祥寺」が好きで吉祥寺に住みましたと言っている。
しかしこれは本当のことだ。
この吉祥寺には伽藍堂(ガランドウ)というライブ喫茶があった。席数は30席、ビルの2階にある素敵な空間だ。
私はアルコールが全く飲めない。世間では下戸と言うらしい。
鹿児島から来ましたと自己紹介などするとどうも焼酎のイメージがあり酒豪のように思われたが本当に今も1滴も飲めない。
娘が二十歳になったときも娘だけチューハイを飲み、私は白湯で乾杯した。
その酒が飲めない私はガランドウでは決まってガラナ(今ではアルコールフリーのビール飲料があるが)
と言うビールに似た色や瓶の形をした飲みものを注文してライブを見た。
当時は斉藤哲夫さんや中川イサトさんなどが出演していた。
500円にワンドリンク(私の場合はガラナ300円)、つまり、私の場合は800円でライブが見られた。
本当に目の前でみることができた。
ギター1本が通常で、多くてもバンジョーやベース、ピアノが加わる程度。
歌い手と同じ目線にいることができた。
観客は数人と言うこともよくあった。
PCもスマフォもなく情報はもっぱら「ぴあ」だった。
吉祥寺だけでも15件ほどのライブハウスがあり人気だった。
しかしライブハウスの経営は厳しかったと思う。
お金のない学生は食べ物を注文しないし、平気で2時間は席にいた。
今の人は斉藤哲夫さんを知らないかもしれない。
ユーチューブなどという便利なものがある。
是非1度「斉藤哲夫・吉祥寺」で検索して吉祥寺と言う曲を聞いて欲しい。
今でも吉祥寺を聞くと懐かしく想い出される。
冒頭に吉祥寺の井の頭公園にいた、と書いたが1人でいたわけではない。
これから、1980年の激動のストーリーがはじまる。