和食のT君 ラーメン屋での話しなど 1979年
- 2015/11/11
- コラム
私は学生時代、故郷に帰郷した際必ず、故郷の大きなホテルでアルバイトをした。
東京でも1年生の夏休みには今話題のホテル○○○○でアルバイトをした。
ひと夏、約40日間泊まり込みのバイトだ。
朝は朝食の準備やかたずけ、昼は夜の宴会の準備、夜は宴会のかたずけなどなど、今では間違いなく労働基準法違反なのだろう。
しかし朝から夜遅くまで働きづめだがまったく苦にならない。
いや実に楽しかった。食事は3食出る。
泊まる場所はホテルの部屋とはいかないが、私の下宿よりははるかにいい室だ。
バイトが終わり、お金をもらうと吉祥寺のヤマハへ出かけた。(友部正人の一本道を口ずさんだ)
学生になって入学金以外では一番の出費だ。中野サンプラザで見た、ライクーダが弾いていたギターだ。
実は今現在もそのギターを持っており、ギターを弾いている。どんな曲かと言われても今風ではない。なんと言うかその当時の時代背景が色濃い曲だ。
まあ、人に聞かせるような曲ではない。しかし正にそのギターが現存して私は弾いている。
まあ、よく40年もそこにあってくれた。
そうだ、アルバイトの話しだった。
故郷でのバイトは夏・冬・春と2年ほど続いた。
ここのバイトも楽しかった。我々他に鹿児島の学生さんも多く働いていた。
またホテルの若い社員さんも本当によくしてくれた。
私はアルバイトで社会経験が出来たなどという輩は信用しないが、アルバイトで一緒に働くことで友人にはなれるし、お金よりもそちらの方が大切なような気が現在はしている。
ホテルのメインの仕事は結婚式の披露宴だ。
結婚する2人やご家族、ご友人は披露宴に出席する方だからそれはいいとして。
大安ともなると1ホテルで7組の披露宴が行われる。
同じ会場を1日に2回使うことを「ドンデン」と呼んでいた。
昼に1回の披露宴、夕方から2回目の披露宴。目の回る忙しさだ。
ここでも働くことを一緒にすると仲よくなるものだ。
鹿児島の女子大学生も何人かおり、彼女達と同じ会場の担当になるのが楽しかった。
まあそれだけだが。
ここのバイト一番印象に残っているのは、ホテルの和食の従業員で中学を卒業してすぐホテルの和食で働いているT君だ。私は21歳。T君は16歳。
しかし彼は社会人として立派に働いている。
和食の世界の上下関係は厳しく、T君はいつも怒られていた。
言い方が違う。怒鳴られていた。
そしていつも朝早くから夜遅くまで働いていた。
T君と何気なく話すようになった。なぜかは知らないがT君は歳下なのに私によくしてくれた。
ある夜12時近くにT君と私は仕事が終わった。
T君はホテルの寮に住んでいた。
「じゃ、行こうか」
2人で寮の近くの深夜までやっているラーメン屋に行った。
なにげない話しをして、別れ際にT君が「大学って難しいんだろな」と言った。
私は勉強しない大学生なので「大学なんか面白くないよ」と答える。
「でも勉強が出来るだろう、難しい勉強が」とT君。
「勉強なら働くことも勉強だし、T君も今、社会勉強をしているんだよ」と私。
「でも、大学はいいよね」・・・・・・・・・・
私は勘違いをしている。
T君は本当に勉強がしたいのだ。
中学を出て高校にも行かず(家庭の事情で行けなかったと後から聞いた)働いている自分と、アルバイトで働いたつもりになっている私。
私は言葉にならない。
深夜1時過ぎ、ラーメン屋を出るとき、T君は黙って、私のラーメン代も払った。
「悪いよ、自分の分は払うよ」と言うと。
「俺は労働者だ、気にすんな」と言ってめったに見せない笑顔を見せ寮にゆっくり帰った。
後姿はまだ話したりないような感じを受けた。寮までの薄暗い1本道を歩くT君がいる。
私は帰りがけに「俺は大学で何がしたいのか、何をしなければならないのか」と歩きながら考えた。
もう40年が経つが「今も勉強をしているのか」と一人ごとを言っている。