懐かしく、他愛無い話し
- 2015/9/13
- コラム
今からもう40年以上も前のこととなった。
その秋の行事は「体育祭」なのか「体育大会」なのか。
生徒会と教師の間で問題になっていた。
「祭」の字があるから、みんなが楽しむ意味で「体育祭」だと主張する生徒会側。
あくまで教育の一環なのだから「体育大会」であるべきと主張する教師側。
今では考えられないくらい生徒会が自治権を持ち教師といい意味の対立をしていた。
南国の秋空は濃い青だがどこまでも透き通っている。
生徒会では哲学好きなTがこの青い空こそ
我が敬愛する哲学者西田幾多郎の「善の研究」で言うところの真理であるなどと言う。
一端の文学少年気どりのKが、いやそれは高村光太郎の智恵子抄「あどけない話し」にでくる「阿多多羅山の上に毎日でている青い空」と同じだなどと続く。
肝心な「体育祭か体育大会か」はどこかに行き、皆が自分の意見を言える、自由な雰囲気である。
ここでは違う主張をしてもだれもそれを批判しない、いや批判をするのだが最後はいろいろな意見があっていいで落ち着く。
教師はやはりそうはいかないのか、「体育大会」だと主張する。
生徒会は「体育祭」だと譲らない。
いい対立だ。
哲学好きなTは、ヘイゲルの「正・反・合」をあげ、対立がまた新しい価値を生むなどと言う。
実に懐かしく、他愛無い「秋」の話しである。