東京、高円寺の下宿にて 1978年
- 2015/10/18
- コラム
東京の冬は寒い。
南国育ちの私には堪えた。
下宿人は5人いて3人が同じ大学で2人が違う大学だった。
(学年は4年から1年までいた)
すべて共同でその年の夏があまりに暑く中古の小さい冷蔵庫を5人でお金を出しあって買った。
富山出身の○○さんはさすがコメどころの出身でよく実家から「米」が送ってきた。
送ってきた米は5人のものとなるのは言うまでもない。
また○○さんは一人だけ「圧力なべ」を持っていた。
共同のガスコンロ(もちろん1口しかない)を使いジャガイモをゆでたり、米を炊いたり
料理がすぐできた。
ずいぶんごちそうになった。
間もなく○○さんは「圧力なべの○○」と下宿では呼ばれることとなった。
合気道部に所属していて、上着は昔ながらの学生服を着て大学に行っていた。
私が持っていた、電気ポットは○○さんからもらったものだ。
のちに○○さんは富山県庁に就職した。
下宿では月に2回ほど5人で料理をつくり一緒に食べた。
メニューは3種類。
「鶏の手羽のから揚げ」と「マーボー豆腐」と「富山の米」だ。
鶏の手羽は近くの鶏専門店で安く買えた。
「貧乏学生か、持ってけ」みたいな感じで江戸子のおやじさんが驚くべき安さで分けてくれた。
マーボー豆腐づくりは私の役だ。
近くにあったこぎたないスーパーで「理研のマボちゃん」と言うインスタントを買い、
なべに(フライパンがなかった)油を少し引き理研のマボちゃんを入れた。
1袋で2人前だが5人分をつくらないといけない。
どうでもよかった。量があればいいのだ。
豆腐をはじめは切るのだがそのうちにつぶしながら入れた。
2人前の理研のマボちゃんに4丁の豆腐を入れる。味が薄くなる.
気のきいた調味料がないので、醤油やコショウを適当に入れ味付けをした。
少し味がおかしいと言われると「薩摩の味付けです」と言うことにしていた。
5人とも全国から来ているので「薩摩の味付け」と言う言葉には説得力があった。
まあなんでもいいのだ。グルメなんて言葉の対極にあったのだから。
5人の下宿人のうち1人だけ6畳間にいた。私は3畳、他は4畳半だ。
6畳間にいる△△さんは自分の6畳間を「貴賓室」と呼び食事会に開放してくれた。
今考えると残りは3畳と4畳半なので6畳しか5人は入れない。
「さあ、食うべか」、最上級生の「貴賓室」に住む△△さんが群馬弁で言う。
鶏の手羽から揚げは合計150本はある。1人で30本は食べられる。
今なら食べられないが当時はなんともなく食べられた。
薩摩味のマーボー豆腐は富山県産の美味い米の上に乗せられえもいえない美味しさだ。
ビールを飲む先輩もいたが、食欲の方がうえをいき一気に食べ物がなくなる。
米は○○さんの富山の実家から送ってきてあるので食べ放題だ。
おかずが少なくなると、大家さんのところへ行くのが私の役割だ。
「ふりかけとか佃煮はありませんか」と大家さんにお願いする。
「またー」と言いながら大家さんは「江戸むらさき」と言う瓶入りの海苔佃煮をくれる。
合気道部の○○さんは「圧力ナベ」で炊いたご飯を5杯は軽く食べた。
なぜあんなに食べられたのだろう。
そしてなぜあんなに美味かったのだろう。
食事が終わると、みんなでたわいもないことを話した。
そして皿洗いだけは私の役目だ。
皿を洗い終わり少し休憩をして、みんなで銭湯に行く。
「神田川」の世界とは程遠い、高円寺の銭湯話しはこれがまた面白い。
次回のお楽しみに。
しかしなぜ、あんなに美味かったのだろう。近頃、本当によく想い出す。
寒い東京の下宿の話しだ。