神宮球場と春!

1980年の春、私はなぜか、大学野球を毎週見た。

私の母校は東京の大学のリーグ戦でも強豪校だった。それはそうだろう。

甲子園で活躍した球児が大勢いて、全国的にも有名な選手が多く所属していた。

神宮球場

当時の神宮球場には外野に芝生席(席と言っても芝生があるだけだが)があった。

私は当然母校を応援したが、1980年の春は全試合を見ることになった。

土曜日・日曜日と試合が1日2試合(1日で4校の試合が見られる)ある。
一勝一敗だと月曜日が試合となり2勝した方が勝ちとなる6校総当たり戦だ。
すなわち月曜日は講義に出ない。

日本最高学府の大学の野球部も所属しておりなかなかの試合を見せた。
たまに勝ったりすると翌日のスポーツ紙に大きく載った。

私は試合も好きだが、試合前の練習を見るのが好きだった。
まずはキャッチボールだ。
ただ2人でお互いボールを投げ、受けてまた投げるだけだ。

幼い記憶の中に父とキャッチボールをした記憶がある人は多いだろう。

野球が娯楽の一番だった。
子供たちは公園で三角ベースなる野球をしていた。
私も48歳で亡くなった父とキャッチボールした記憶がある。

大江健三郎さんの小説にまだ戦争の焼け跡がのこる場所でキャッチボールをする場面がある。
戦後の復興をミットにおさまるボールの音が後押しするようなシーンだった。
いかん、また話しがそれた。

私は試合前の練習でノックしたボールを外野手がバックホームするシーンが一番好きだった。

肩の強い選手はホームベースへまさに、レーザービームのような球を投げた。

試合が始まると、両校の応援団は忙しい。学生服を着て応援を指導する。

私の語学のクラスメートで応援団部に所属する山形の出身の友人がいた。

応援団部は単位を出席しないと取れない語学と体育だけは出席していた。

その他は講義で見たことがない。

その友人と国鉄(今はJR)の市ヶ谷駅で会うと、大学まで桜並木を歩いた。

江戸城の外堀にある大学の為、市ヶ谷でも飯田橋の駅からでも徒歩10分ぐらいだ。

応援団部の友人は学生服を毎日着ている、私はお決まりのワークシャッにジーパンだ。

友人と話すのは楽しいのだが、なにせ応援団だ。
前から先輩が来ると大変だ。
先輩を見つけると先輩のところまで走って行き、「ちわー」と大声で挨拶する。
私は恥ずかしいが友人はお構いなしだ。上下関係の厳しい応援団だ。

一度学食でこんなことがあった。

友人と私は学食で昼食をしようとしていた。

そこに4年生の応援団の副団長がいた。もちろん友人は大きな声で「ちわー」と挨拶した。

すると、応援団副団長は友人に、私のことを「友人か?」と聞いた。

友人は「鹿児島出身の私の友人であります」と答えた。

副団長はすぐ、1,000円札を友人に差出しで「2人で好きなのもを食え」と言った。

友人は「何を食べると?」と聞く。私は学食では180円のキツネそばを食べていた。

しかし友人によると、1,000円でおつりがないようにしないといけないらしい。

私は貧乏学生で学食でさえ500円以上のものを食べたことがない。

私は思い切って「カツカレーの大盛」と言った。言って「フーと」息をした。

友人もカツカレーの大盛にした。

2人で副団長へお礼を言い、初めて学食で450円のかつカレーの大盛を食べた。

実にうまい。着色したフクジン漬も山盛りにしてもらった。

後で「お礼はいいのかな?」と言うと先輩は後輩が学食にいるときは後輩の分も出すらしいと聞いた。

その後副団長は超一流企業に就職した。私の友人も超一流企業に就職することになる。

神宮球場の春は心地がいい。また外野の芝生席は寝転んで野球も見られたし、好きな本も読めた。

本を読んでいるときは、応援席が「わ~と」言う時がチャンスやピンチの時なのでその時だけ野球を見た。
当時外野の芝生席は学生割引で150円だった。

150円で12時から2試合終了の午後5時ぐらいまで楽しめた。

信濃町

帰りは信濃町の駅まで20分ほど歩き高円寺へ帰った。
壁の穴

吉祥寺・高円寺・信濃町・市ヶ谷・飯田橋・・・・・・・・

今は大きく変わっているだろう。

もう37年もたつのだから。
今でも信濃町の駅で降りて、神宮球場まで歩いた時の心の若さでいられるのだろうか。

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