1980年 A君と高円寺の下宿にて
- 2016/5/28
- コラム
東京高円寺の下宿には私を含めて5人下宿人がいた。
全員地方から上京した大学生だ。
名古屋の岡崎出身のA君は私より若く名門W大学のR学部に現役で合格した秀才だ。
もの静かな感じで他の先輩下宿人とは少し違った。
当然1年生なので、みんなからからかわれたりしたが、暖簾に腕押しの体で柔らかくすり抜ける技をもっていた。
技を駆使するのではなく、自然体なのだ。
私は私立文系で数学、物理、化学などからっきしダメで、よく数Ⅲなどの難しいものができるものだと感心していた。
しかも難関大学の最難関理系の学部だ。
よく夜、お茶を飲みながら話した。
今はスマフォなどがあり、お互い正面どうしで座っているのに、スマフォをいじっている。
不思議で仕方がない。
お互い向き合って話す、ダイレクトなコニュニケーションの取り方が一番だと思うのだが。
A君は夏休みの前には「どうも理系は向かない」などと言い始めた。
私立理系の最難関学部なのにだ。
「で、文系がいいの」と私。
「いや文系ではないのだけれど・・・・なんとなく向かない」と言い出す。
そんな贅沢なことを言いながら秋になった。
「Sさん(私のことだ)お話しがありますとA君」「何聞くよ」
「実は大学を辞めようと思うのですが・・・・・」
「えー待てよ、W大学のR学部だぜ、もったいないよ」と私。
私の大学とは難しさがけた外れに違う。
「郷里のご両親も心配するよ」と言うと、ご両親はしたいようにとのこと。
そうか、大学の偏差値ではなく「自分がしたいようにする」考えがあるんだ。
私もしたいようにしていたが、レベルが違う。
「それでどうするの」と私。
「今文系の受験勉強を下宿でしていて、12月には故郷へ帰ります」とA君。
そうか、下宿でまた受験勉強をしているんだ。ここに驚いた。大学に入ればこっちのもの、
受験勉強などもう絶対にしないと考えている私は下宿で受験勉強していることにまた驚いた。
その後12月には退学届けを出し、岡崎へ帰った。
A君とは高円寺の下宿では6か月の付き合いだったが、縁はいなもので実は平成28年現在でも付き合っている。
12月に岡崎へ帰ったA君は翌年の春になんと名古屋の最難関国立大学の法学部に合格した。
私なんぞは、東京の私立文系をたくさん受けてなんとか1校に入れたが、A君はなんなく合格した。
実家から通えるそうだとはあとから聞いた。
その後私も、A君も大学生活を送り、私は故郷へ帰り就職した。
A君も次の年就職すると思っていたが、やはり頭がいいのだろう。
なんと卒業時は司法書士に合格して、今は岡崎で司法書士事務所を開いている。
夏休みに列車で故郷へ帰るときに一緒に岡崎へ行き、泊めて頂いた。
岡崎市でも郊外で畑の広がる場所だった。
その後お互い社会人となり忙しく働いたが、私は娘が小さいとき岡崎を訪問した。
お互いゆっくり会いたいなと言いながら実現はできていないが、時々長電話をしている。
しかしなんとなく学生時代と変わらない、話しを今でもしている。
岡崎、そうだ「まちゼミ」の松井先生の街だ。
「まちゼミ」の視察などで行けないものかと思っている。