1980年、秋 ボブ・ディランの(Idiot wind)「愚かな風」を訳した。
- 2016/10/27
- コラム
東京高円寺の下宿は3畳一間の下宿だった。
(名曲「神田川」に三畳一間の小さな下宿とあるがそんなに抒情的ではない)
1980年の秋、その室でボブ・ディランの「愚かな風」を日本語に訳してみた。
大学の英語の授業では、ダスティンホフマンの映画で有名だった「卒業」を教材に使っていた。
またマルクスの「賃労働と資本」を経済学言論Ⅰでは英訳を和訳になどしていた。
今頃、マルクス経済など勉強しないが、当時は近代経済とマルクス経済が経済学の2本柱で、キン経・マル経とよんでいた。
同じ経済学なのに主張が全く違う。
ここで違いがあっていいんだ、いろいろありますよと学び現在に至っている。
ボブ・ディランの「愚かな風」の和訳は出版物でいろいろ出ていた。
しかし今のように、簡単にパソコンが教えてはくれない。
自分なりに、受験で使った英語の辞書を片手に訳した。
ボブ・ディランの詩は難解で知られていた。
直訳しても意味不明だった。
ボブ・ディランの詩を英訳している自分に酔っていたのだろう。
結局難しい言葉をリズムに乗せて歌う、ディランの真意はわからない。
しかし内容は散々世間や為政者、学者などをこき下ろしながら最後に1言ディランは
次の詩をつづるのだ。
※
Idiot wind,
白痴の風だぜ
Blowing through the dust upon our shelves,
おれたちのところの棚の上のほこりに吹きつける
We’re idiots, babe.
自身おれたちは低脳だぜ、なあ
It’s a wonder we can even feed ourselves.
おれたちが自分たちで食っていけてるなんて、不思議なこったぜ
この最後の詩は「おれたちが自分たちで食っていけるなんて、不思議なこったぜ」で終わっている。
この前の詩で散々、為政者や社会や偽善者をこき下ろしているが、最後にディランは
自分たち、すなわち自分自身を愚かだと言っている詩だ。
そうか、そうなんだ、実は批判を受ける、非難を受けるべきはディラン、我々自身、自分自身だと言っている。
高円寺の下宿でなんとなく大学生活を送っている俺なんだ。
「愚かな風」はそういう詩なのだ。
驚いた。心に重く響いた。
1980年、秋はそんな季節だった。
翌年には、高円寺を離れ、吉祥寺に住むことになる。
時は過ぎ、2016年10月13日、大学の鹿児島校友会の集まりに参加していた。
午後9時前、私の娘からメールが来た。
「今年のノーベル文学賞はボブ・ディランだって、良かったね」
このメールを見て、そこに来たかと思った。
その後ディランはノーベル文学賞について言及していない。
それでいいのだ。そうだ。それでいいのだ。そして歌い続けている。
私は「愚かな風」や「ハリケーン」「激しい雨が降る」「風に吹かれて」「時代は変わる」
などなどのボブ・ディランの唄を今でも毎日のように聴いている。
1980年秋の自分と2016年10月の自分。
全てが変わったと思うが、実は何も変わっていないのかもしれないとふと考えるている。