1981年2月末、寒い東京で引っ越しをした。
- 2017/5/18
- コラム
私は大学2年まで高円寺の下宿にいた。
大学生の下宿人も大家さんも皆いい人で、私の大学2年間の想い出として一生忘れることはできない。
騒然とした入学式、成田でのデモ、学園祭、6大学野球、吉祥寺で遊んだ仲間。
とにかく大きなうねりの中で毎日がカルチャーショックの連続だったと言っていいだろう。
しかし2年の後半からこのまま、居心地のいい場にいていいのか?
どこかにそんな気持ちが生まれてきていた。
私が高円寺を最初の下宿に選んだのは、
吉田拓郎の「高円寺」という曲が好きだったからだ。
次は
「そうだ、やはり吉祥寺しかない」
斉藤哲夫の「吉祥寺」という曲好きだったからだ。
私は大学3年から吉祥寺に住むことになった。
今では住みたい街ランキングで常に上位を占める吉祥寺だが当時は駅前には市場が残り
ごちゃごちゃした路地には学生向けの定食屋も多く残っていた。
サンロードというアーケードの通りがあり、よく行くことになる「サムタイム」というライブハウスがあった。
また「がらんどー」や「シルバーエレファント」などなどのライブハウスも多く、若者の街だった。
井の頭公園や成蹊大学など今考えても若者が多いおしゃれな街だった。
実は吉祥寺に住んだと言っているが、正確ではない。
吉祥寺は当時から「ジョージ」と呼ばれ人気の街で、私が払える家賃のアパートはそうなかった。
私は吉祥寺から三鷹方面に20分ほど歩いた場所の小汚いアーパトに住むことになる。
住所で言うと、三鷹市下連雀だ。太宰治の入水自殺で有名な玉川上水の近くだった。
しかし、アパートなので当然だが、私に室に1戸のドアがある。
今までは1件家に5人の下宿人がいた為、同じドアの合鍵を大家さんも5人の下宿人も持っていた。
それに比べれば四畳半とは言え、水道も流しも私の室にある。
流石に風呂はなく、銭湯だった。
ここで大学3年が始まった。
学業の方はいい加減で筆記試験は適当にやり、また大学紛争の為、試験がなく全科目レポートとなることが多かった。
今の学生さんには考えられないだろう。
吉祥寺の駅まで歩き、市ヶ谷か飯田橋で降り学校へ通った。
途中に新宿があり、学校へ行かず途中下車して新宿の「末広亭」で落語などを聞いた。
吉祥寺の「がらんどー」でライブを聞いた。
当時は500円で1ドリンクを頼む形式だった。
800円あれば、斎藤哲夫や友部正人、中川イサトなどのライブが聴けた。
「がらんどー」は東急百貨店の後ろの通りを行った、ビルの2階にあった。
最高でも30人しか入らない。そんなライブハウスが数多くあった。
目の前で聴ける、これはライブにしかない臨場感だ。
高円寺の「猫屋敷」もよく行っていた。
うじきつよしが若かりしころ「子供バンド」というバンドで毎日のように歌っていた。
大きな会場のコンサートは2回だけ行った。
ライクーダの来日コンサート(中野サンプラザ)とサザンオールスターズの解散コンサート
(後楽園球場・・・今の東京ドーム)だ。
サザンオールスターズは休息の為、一時期解散をした。
お嬢様大学の幼なじみの女性と奥多摩でけがをした男性の友人と行った。
後楽園球場のマウンドあたりが舞台でホームベースの後ろが臨時の観客席だった。
相当なファンでいっぱいだった。
大音響が流れる。皆立ち上がり踊りながら聞く。
それはそれでいいのだが、小さいライブハウスが慣れていた私はやはり違和感を覚えた。
そして大学3年が始まった。
専門科目も多くなり、ゼミなどもあった。
人気のゼミは競争率が高くなかなか入れない。私は地味な先生の経営学のゼミを選考した。
学校帰りは吉祥寺の駅で降り、吉祥寺の周辺を歩いた。
普通に大学に入った友人はすでに社会人となっていた。
社会人か、そうか、やはり焦りと違和感を覚えた。
ここから私の吉祥寺物語が始まる。
斉藤哲夫 作詞 作曲
「吉祥寺」歌詞
吉祥寺を通り抜けて 右へ左へとほんの少し
そうさ今日は良い天気 とてもよい気分だから 君に会いに行こう
待つことの程もなくに ロングヘアーが疲れていた君は
寝不足気味乍らも やっと朝のごあいさつ そうご機嫌いかが
吉祥寺から南へ下りて 折れて曲がってまっすぐに
ほら遠くから聴こえてくるよ 君は今日も歌ってる ちょっと急がなくちゃ
くわえたばこで足踏みし乍ら 僕を迎えてくれる君の笑い顔にも
昨日の疲れの中に寂しさが残ってる 久しぶりじゃないか
吉祥寺にも冷たい雨が降る そんな時君はじっと待っている
誰かが訪ねてくることを じっと待ち乍らも 心は曇り空
吉祥寺へ行こう 君が待っている吉祥寺へ
そうさ今日は良い天気とても良い気分だから 君に会いに行こう
吹く風は大通りをぬけて 急ぎ足で君の部屋へ やってくる
君はゆっくりとたばこを
ふかし乍らバンジョーを鳴らす 吉祥寺明日晴れるか
私の大学3年の1年間は晴れるのかと、ひとりごちた。