1981年5月、東京の空は晴れわたり、どこまでも青く澄んでいたが・・・

一般的に、東京は都会でコンクリートジャングルであり、青い空などお目にかかれないなどなどのステレオタイプな考えが有りがちだが、

1981年にはすでに公害は収まり、東京は都市の中でも緑や公園の多い都市であった。

各区が公園を整備して管理していた。

私がいた吉祥寺はまだ武蔵野の面影を残す場所で、井の頭公園や井の頭動物園もあり

自然が豊かと言っていいかもしれない場所だった。

私のアパートの前には玉川上水が流れていて、そこを吹く風は心地良かった。

昭和の30年代を代表する、私小説作家「上林 暁」(かんばやし あかつき)の代表作の一つに

「聖ヨハネ病院にて」がある。

ストイックでありながらも、しかししっかりした文章は一時期私の好む作家であった。

確か代表作の「聖ヨハネ病院にて」の病院が今で言う、JR中央線のどこかの駅から離れた武蔵野の面影を残す場所だったと記憶している。

現在では上林暁を読む人は殆どいないと思う。

私は文体が好きだったこともあるが、東京の友人の一人が同じ経営学部でありながら文学好きで

「上林暁」「尾崎一雄」「伊藤整」などをよく読んでいた。

A君は私の友人の中では「本」好きだった。

学内でもアジ演説がある中、ベンチで静かに本を読んでいた。

物静かで落ち着いていた。

東京の郊外の自宅から通っていた。

他の友人からは授業のノートをコピーさせてくれだの、今回も試験が無いといいな、などの話しが多かったが、

A君は少し根源的な話しを好んだ。

市ヶ谷の喫茶店「ルノアール市ヶ谷外堀通り店」にて2人で話した。

昭和の喫茶店として現在も喫茶店文化を受け継ぎ営々として経営をしている。

現在は所謂、「カフェ」が多くセルフサービスだが、昭和の喫茶店はオールサービスで少し薄暗い場所だった。

コーヒー1杯で2時間は話し込んだ。

A君は長髪で目にかかる髪をかき上げながら、好きな本の話しをした。

私も高校時代の週一のクラブ活動が日本文学クラブだったせいもあり、本の話は

興味があった。

当時、亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」を良く読んでいた。

現代国語の試験に亀井勝一郎の文章が良く出た。

それで読んでいたのかもしれない。

A君は決して大げさなことを言わない、実にもの静かだった。

本当は文学部にでも行きたかったのではないだろうか。

しかしこの質問をA君にすることはもうできないのだ。

A君は優秀で当時の4大証券会社の一角であった、今もある証券会社の社員となった。

その後転勤で全国各地を転々とした。

その間も年賀状のやり取りだけはしていた。

東京の郊外のA君の実家に年賀状は送った。

A君の弟さんが転勤先に年賀状を送ってくれていたのか、正月だから実家にいたのかもしれない。

私は故郷でサラリーマンをしていた。

家族もでき、子供も生まれ忙しい日々を送った。

今から数年前にA君の弟さんから電話があった。

「Sさんですか?兄が入院したんです」

「そうですか、無理するな、ゆっくりすればいい」と伝えてもらった。

それから1年後、A君の写真が弟さんから送ってきた。

驚いた。痩せている。手が麻痺しているようだった。

電話で話せるか聞いた。

弟さんは心筋梗塞で話せないと言った。

市ヶ谷の喫茶店「ルノアール市ヶ谷外堀通り店」で2時間も話し込んでいた、

A君だ。

「そうですか」

弟さんが「Sさんとよく本の話をした」と兄が言っていました、と言った。

言っていました・・・今は言えないのだ。

その後半年して、A君の訃報を聞いた。

生きていれば「経営学部より、文学部が良かっただろう」と聞けたはずだ。

病院に長く入院していたとのことだった。

「聖ヨハネ病院にて」を読んで、話しているA君は今でも私の記憶に深くある。

これからこんなことが多くなるのだろうか。

人には寿命があるが、

私の記憶の中ではいつまでも市ヶ谷の喫茶店

「ルノアール市ヶ谷外堀通り店」のA君だ。

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