1982年 春 桜が咲き、世間は華やいだ!
- 2018/5/4
- コラム
四季の移ろいは、私なんぞが考えるよりも確実に移り変わりまた新しい季節となる。
寒い東京の冬が過ぎる。
どういう訳かまた春が来る。
この四季の変化が日本の最大かつ、最高の価値かもしれない。
1982年の春は、吉祥寺のアパートにいた。
同じ歳の友人や故郷の仲間は大学を卒業して、新入社員としてそれぞれの職場で働き始めた。
まだバブルではなく、就職に苦労した友人もいたが、4月も末には全員が社会人となった。
そうか、そうなんだ、働き、稼ぐ、この当たり前のことが羨ましく思えた。
私は「中小企業論」のゼミに入った。
2年生のとき、清成先生の「中小企業論」の授業が好きだったからだ。
このゼミは人気のゼミで、先輩達の多くは有名金融機関や証券会社に就職していた。
私は進路などを考えたこともなく、ただ清成先生が好きで「清成ゼミ」に入った。
実はこの人気のゼミは、入会希望者が多く試験と面接があった。
他のメンバーはよく勉強して、適格に面接にも答えられる力量をもっていたのだと思う。
他方私と言えば、経済や経営の本などほとんど読まないし、2年までは大学紛争
(この辺は今の方々には理解し難いと思う)
などの影響で期末の試験がなくすべてレポートだった。
私は「清成ゼミ」には入るのは難しいが、大学で一番好きな先生と講義だった為、所謂ダメもとでゼミの試験を受けた。
58年館の一室でゼミの入会試験は行われた。
面接が一番重要で、ゼミの先輩やゼミ長と呼ばれるゼミを仕切る先輩が面接官だ。
もう40年前のことで詳細には記憶にないが、
「企業が発展する為にはどのようなことが必要か」
を5分間で話せと言うような内容だったと思う。
私は専門的な話しは出来ないし、またしたとしても薄っぺら話しになると思った。
勉強をはしていない私しだが、だれよりもアルバイトはしていた。
そこで思い切ってアルバイトで学んだ「人」の大切さを述べたような記憶がある。
通常は資本主義経済の中にいるのだから「人材」「金」「資本・もの」「情報」などを絡めて
話すべきだったのだろう。
しかし私は、これまでのアルバイトで出会った「人」の話しをした。
故郷の大きなホテルで働く、和食のT君の話しに時間を割いた。
低賃金、長時間労働に愚痴一つ言わず寡黙でありながら、真摯に仕事に向き合い自立しているT君は
4歳年下だが大人に見えたからだ。
いくら資本金が多くても、大きな工場でも、世界の技術をもっていても、
そこで働く「人」が一番重要だとのことを述べた。
今思えば当たり前のことで、人を説得するような考え方ではない。
12人しか入れないゼミの入会試験には58名の受験者がいたとは後から聞いた。
私はT君の仕事ぶりや夜食を食べた想い出などを話したのだろう。
数人いる面接官は「そんな思いで話しはもういいよ」と言わんばかりだったが
ゼミ長だけは私の拙い話しを熱心に聞いてくれた。
面接が終わり、市ヶ谷の駅から新宿のバイト先へ向かった。
駅までの道のりは江戸城の外堀にあたり、桜が満開だった。
ゼミの試験には通るはずはないし「潔く散るか」の心境だった。
その日の焼肉店のバイトの皿洗いはいつもとは違う感じがした。
1週間後がゼミ入会試験の発表だ。
今ならラインで合格、不合格だろうが当時は携帯などないし当然張り紙だった。
市ヶ谷校舎へ行き、合否だけは確かめないといけないと思いゼミ室の張り紙を見た。
えー私の名前が書いてある。合格したらしい。しかしあまりうれしくなかった。
帰ろうとすると、薄暗い廊下の前からゼミ長が来た。
「おめでとう」と1言。少しだけ笑った。
「中小企業論」をもう一度読んでおいた方がいいとだけ言ってゼミ室へ消えた。
桜並木を歩きながら、なんとなく大学生になれた気がした。
市ヶ谷の駅を通り越して、四ッ谷の駅まで歩いた。
「清成ゼミ」では語りつくせないいい経験が出来た。
ゼミの先輩や後輩は一般的に言う、いい企業に就職した。
大企業で要職につき活躍した。
私も故郷で就職して、それなりに働き、生活をして現在に至る。
2年間のゼミだったがいい思い出ばかりだ。
清成ゼミに入れた理由はまた次回書こう。
ゼミ長だけは大企業ではなく、彼らしい会社で貢献することになる。
もう40年前の話しだ。